最近、自分にとって、びびっと来た動画はこれ。
毒親だ、親ガチャだと、話は耳に入ってきたが、それはみな「評判」なのであって、適当な愚痴の類いだろうと思って、関心を持たなかったのだが、ひょんな弾みで観てみたら、自分の人生で一番頭を悩ませていたテーマがこれだった。
つい最近まで悩みの種だった。
と、思っていた。
が、また、次の疑問がわいてきて、すぐに解決したりして。
私の半生と言うより、大部分がこの悩みだった。
で、最近の出来事。実は、私の兄弟との折り合いについて考えさせられることがあり、親のいやだった面を引き継いでいるなぁって思ったことがあった。
考えてみれば、私は独身だし、下の弟らは、離婚をしていたり、夫婦別居みたいな状態だったりしている。動画では、毒親に育てられると、対人関係がうまく作れなかったり、夫婦や家庭のことで悩んだりしやすいと言うが、全くその通りだ。
このことがわかるまでに私は60年以上費やしてしまい、気がついたら人生の残りシロがわずかではないか。
わかったことは、学際的な世界(大学なんかのことね)は、まず、ほとんど実用性はないって事。心理学だの、読心術だの、やたら観念的で、ピンとこない話ばかりが積み上がってる感じがしてた。救急救命士や心理士みたいな職業があるけど、そう言うテキストを読んでみても、ピンとこない。
その後、成人広汎性発達障害という、症状の報告が、臨床の方であって、それがどんどん広まっていって、はじめの頃は、ラジオの人生相談などでそう言う話題がよく出るようになってきた。
そして、アスペルガー症候群が、自閉症スペクトラム症候群という名前に変えられるくらいになって、ADHDや、ASDなどの話が、動画で語られるようになってきた。
ある種、脳の症状というか、癖のある行動(あるいは認識)というか、そういうことを知ることの方が、心理学なんかよりも何倍も実践的だし、周りの人や、なにより自分を客観的に知る手がかりになって、大いに助かった。
今でも忘れないけど、私の親は、よく「心配だわぁ~」と言う人だったが、私が50代になってから、「もしかすると、心配というのは『自分が不安になること』を言ってるのではないか?」と気がついてから、私の親はその不安傾向たっぷりな性格の持ち主だったのかなぁ?と思い始めた。
歳をとってから、遠方に住む息子に対して、「心配だわー」って言うときは、自分が不安になっているからそう言うのであって、本音としては不安にさせないでクレーという意味だったのかと気がついた。これに気がつくまでは、心配してくれるいい人だと思っていたのだが、自分が不安にさせられなかったらすべてOKなのだと思うと、なんという身勝手な! という見方も出来ることに気がついたのだった。
これは、子供の親離れというか、1つ次元が変わった(上がった)と言うべきか、ちょっとしたことだけど、大きな変化だった。
毒親に育てられた人は、「自分の価値観」を持てないでいることが多い、と、動画で言っています。
自分は何が好きか、好物か? 即答できないのです。動画でそう解説されていますね。
私は、子供の頃読んだ「にんじん」という物語をすぐに思い出しました。とある少年の話なのだけど、今思えば、母親がここでいう毒親だった。だから、「あなたはキュウリが好きだったわよね」などと、冷蔵庫の残り物を食わせようとして、そう言う問いかけをにんじんにすると、にんじん本人は、「そうだ、俺はキュウリが好きだったのだ」と思ってしまう。だから、結局にんじんは、キュウリを食べてしまうのだ。そんな調子のお話だったと思う。私の子供の頃の話だから、50年くらい前の話だろうし、原作はいつ発表されていたのだろう、だいぶ古い話なんだけど、毒親の存在を、物語の作家は見ていたのだ。
まぁ、「症候群」として、そんな形の考察として取り出した医学者もすごいけどね。
医学者というのは、広く世間にある傾向というものを、そう言う形で集めてまとめるという仕事をしている。社会的には「衆聞を集める」という事なんだろうけど。溺れる者は、藁をも掴むなんて、必死な様子のことを言うけど、こういう行為も同じだ。
客観的に観察しないといけない。
私が60年かかって、わかったことが、短い動画にぎゅっと詰まっていた。